|閻魔堂木造閻魔王坐像|
桜樹接種碑|
梶野新田|
金井原古戦場跡|
寛政六年庚申塔|
空林荘|
小金井桜|
小金井新田|
小金井水田跡の碑|
小金井の地名の由来|
小金井町|
小金井村|
是政新田|
新田開発|
陣屋跡|
製糸工場|
関野新田|
築樋|
貫井村|
武蔵野郷土館|
六地蔵|
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【閻魔堂木造閻魔王坐像】 (えんまどうもくぞうえんまおうぎぞう) (貫井南町4-19) 貫井共同墓地にある閻魔堂の閻魔王坐像(像高75cm)は、地獄 思想を反映した庶民の信仰の対象として、天保6年(1835)ごろ造 られたと考えられている。 |
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【桜樹接種碑】 (おうじゅせっしゅひ) (関野町1-3・玉川上水北岸) 玉川上水の北側緑道、関野橋と 梶野橋の間にある。川崎平右衛門定孝によって玉川上水両岸に桜が 植えられてから100年余り後の嘉永4年(1851)建立。枯れた桜樹 を植え替えるなどして、桜並木の久しきを願って建てられた。 |
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【梶野新田】 (かじのしんでん) 新田開発が盛んであった江戸・享保年間(1716〜1736)に、上 小金井村の名主、梶野藤右衛門が開いた新田。現在の梶野町1〜4丁 目にあたる。新田名は藤右衛門の姓にちなんだもの。 |
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【金井原古戦場跡】 (かないはらこせんじょうあと) (前原町) 正平7年(1352)新田義貞の子義宗、義興と足利尊氏が、金井原 (現・前原町南部)から人見原(現・府中市)にかけて戦いを繰 り広げた。前原3丁目辺りに首塚・胴塚があったが、現在は古戦 場跡の碑だけが残っている。 |
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【寛政六年庚申塔】 (かんせいろくねんこうしんとう) (貫井南町4−11) 寛政6年(1794)に造られ、正面に「絶三尺罪(ぜっさんしざい)」 と刻まれている。 庚申待信仰の三尺説を表した都内でも貴重な庚申塔で、道しるべも刻まれている。 |
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【空林荘】 (くうりんそう) 文化財センター(旧浴恩館)敷地内にある空林荘は、昭和6年に ここに青年団講習所が開かれ、その講師の宿舎として建てられた。 『次郎物語』の著者、下村湖人が、昭和8年から12年まで所長として 若者の指導にあたったとき、ここで青年たちと語り合った。『次郎 物語』第五部に登場する空林庵は、ここがモデルとされている。 |
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【小金井桜】 (こがねいざくら) 玉川上水堤の桜は、元文2年(1737)に武蔵野の新田開発の功 労者である川崎平右衛門定孝が幕府の命を受けて、大和の吉野山や 常陸の桜川の山桜の種をとりよせて苗をつくり、小金井橋を中心に、 東西6kmにわたって植えたものといわれている。寛政9年(1797) には武蔵野八景に選ばれた。 小金井桜の名は全国に知れわたり、江 戸・東京近郊の行楽地として昭和初期まで桜の季節にはにぎわっ た。 明治16年に明治天皇の行幸があり、大正13年には国の「名勝」 に指定され、多くの妃行文、詩歌、錦絵などが残されている。しかし、 戦中・戦後の混乱により、桜樹の保護ができず、樹齢の老化や公害 の影響もあって衰退の一途をたどっている。 |
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【小金井新田】 (こがねいしんでん) 江戸期の上・下小金井村の新田で、玉川上水の南側に展開していた 地域の明治初頭の地名。現在の桜町と緑町の玉川上水南岸にあたる。 |
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【小金井水田跡の碑】 (こがねいすいでんあとのひ) (中町1-1) 市内には最盛期には49haの水田があり、都内でも有数の米どころ であった。しかし、昭和45年の収穫を最後に水田が姿を消した。翌 年記念碑が建てられ、その下に米作の歴史が書かれた和紙や籾など を入れたカプセルが埋められている。 |
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【小金井の地名の由来】 (こがねいのちめいのゆらい) 14世妃に足利尊氏と新田勢が戦った古戦場が金井原(今の前原町 南部)といい、小金井の語源という説もあるが、江戸初期には小金 井と呼ばれていた。「黄金に値する豊富な水が出る」ことから、黄 金井が転じて、小金井になったという説が有力。 |
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【小金井町】 (こがねいまち) 明治22年の町村制施行により誕生した小金井村は、昭和12年、町 制を施行し小金井町となった。この時の戸数は1.784戸、人口は9.481人。 |
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【小金井村】 (こがねいむら) 明治初期、小金井は品川県に属し、明治5年には神奈川県に編入 された。明治22年の町村制施行により、小金井村、貫井村、下小金 井新田、梶野新田、関野新田、十ケ新田が合併して小金井村が誕 生。明治26年、東京府に編入。 |
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【是政新田】 (これまさしんでん) 江戸時代中ごろに盛んに行われた新田開発により生まれた、玉川 上水の北側、現桜町3丁目付近の新田。是政(現府中市)出身の農 民が開墾したところ。元文元年(1736)の検地帳に記載されている。 |
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【新田開発】 (しんでんかいはつ) 江戸時代の小金井は幕府の天領(直轄地)となり、代官の支配下 に置かれていた。承応3年(1654)に玉川上水が完成し、やがて武蔵 野の台地に開墾の鍬(くわ)が入った。享保年間に分水が引かれて からは、幕府の政策で盛んに新領開発が行われ、武蔵野新田82か村 の新田開発には、名主の川崎平右衛門定孝が大きな功績を残した。 |
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【陣屋跡】 (じんやあと) (関野町2-6) 享保・元支(1716〜1741)のころ、南武蔵野新田開拓のために 陣屋があったところ。川崎平右衛門定孝の下役高木三郎兵衛が駐在 した。現在ではその面影もないが、当時は三方に土塁を築き、北側に 用水掘があったといわれる。 |
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【製糸工場】 (せいしこうば) 明治34年、小金井に生糸を生産する鴨下製糸工場が完成。小金井 の工場としては最も古い。当時、小金井を含む北多摩一帯は養蚕が 盛んであった。関東山麓製糸業地帯の一環として、製糸業に乗りだ したのである。後年、集繭圏は小平、多摩、三鷹、国分寺から北多 摩一帯こ拡大。昭和53年に操業を停止。 |
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【関野新田】 (せきのしんでん) 承応3年(1654)に、江戸市中の飲料水確保のために造られた玉川 上水が完成。以後、その分水を利用して生まれた多くの新田の一 つ。亨保9年(1724)、下小金井村の名主、関勘左衛門が玉川上水 北側を開拓したもの。その名にちなんで「関野新田」と呼ばれた。 現在の関野町1〜2丁目のあたり。 |
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【築樋】 (つきどい) 本町4丁目に今も残る築樋は、元禄9年(1696)、玉川上水の水 を飲料水として分水するため、仙川の低地に赤土を盛って固め、土 堤を築いて用水路としたもの。また、梶野町3丁目には、享保17年 (1732)に分水が許可された梶野新田分水の築樋がある。 |
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【貫井村】 (ぬくいむら) 江戸時代前期から小金井にあった村。明治22年、町村制が施行さ れ、貫井村、小金井村など6か村が合併して新しい小金井村が誕生 するまで存続した。 |
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【武蔵野郷土館】(むさしのきょうどかん) 都立小金井公園内の江戸東京たてもの園の場所に、平成3年まで 武蔵野郷土館があり、原始・古代から近現代にいたる武蔵野の生い 立ちをテーマに、さまざまな博物館活動を行っていた。 その前身は、 井の頭公園の自然文化園にあった 武蔵野博物館で、昭和29年、都立小金井公園の開園とともにこの地 に移った。現在は、江戸東京たてもの園が資料を引き継ぎ、展示している。 |
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【六地蔵】(ろくじぞう) (本町1-7) 六角形の石灯籠に彫られた6体の地蔵尊。宝永4年(1707)造立。 平安時代に広まった、地獄からの救済を約束するという地蔵信仰によるもの。 |