野   川





野川ってどんな川

野川は、大岡昇平著「武蔵野夫人」の書き出しの「土地の人は何故そこが[はけ]と呼ばれるかを知らない。」の「はけ」(国分寺崖線)から湧き出る湧水が集まって野川を形成しています。国分寺市の日立中央研究所の池が源流で、国分寺市の真姿の池付近、殿ヶ谷戸庭園、小金井市では貫井弁天のひょうたん池やその周辺、滄浪泉園、中村美術館横の泉、三鷹市では野川公園大沢のわさび田、調布市の深大寺などから今でも湧水が流出しています。
野川の両岸には旧石器時代から縄文時代の遺跡が数多く発掘されています。野川は古代から豊かな実りをもたらす大切な川であったのではないでしょうか。
 現在の野川は昭和44年に改修工事が開始され川幅も大幅に拡幅されて遊水池も出来て洪水の心配は無くなり、下水道の整備に伴い水質も向上しましたが、宅地開発による「ハケの森」の減少による水源の枯渇に加えコンクリートの護岸が進み水深も浅くなり、毎年4月から5月の渇水期には川は干上がるなど魚類は厳しい環境におかれています。
野川の総延長は20.2Km、国分寺市、小金井市、三鷹市、調布市、狛江市、世田谷区の5市1区にまたがり東横線の二子玉川園駅の横で多摩川に注いでいます。ちなみに橋の数は71橋、付近にある寺社は約60社といわれています。
 


野 川 の 散 策 四 季 お り お り 野川周辺の鳥達 野川を愛する人々




昔の野川


 昭和20年代の野川は、川幅は2〜3mで蛇行を繰り返し周囲は水田が開け周辺は雑木林と麦畑でした。二枚橋は小金井から府中に抜ける雑木林の中の細道で人通りもない淋しい場所でした。少し長雨が続くと川は氾濫し田んぼは水びたしになり、低地での床下浸水は年に何度か起りました。
 当時、野川の周辺の畑からは土器や石器の破片が続出し畑の片隅には石斧、石鏃、土器の破片、板碑が積まれており、野川の両岸には多くの縄文時代の住居跡があったことがうかがえます。
 では、昭和20年代の野川周辺の四季の子供達の暮らしぶりをご紹介しましょう。

〇春の野川
 春の野川は年間で最も水が少ない時期です。魚は群れをなして産卵のため川を溯るのが見られました。周囲の田んぼには芹が一面に生え芹摘みの人達で賑わいました。芹の時期が終わる頃河の中には可憐な河骨の花が咲き田んぼは蓮華(れんげ)の花で埋まりそれは綺麗で花の絨毯の中で花を摘み、家族で食事するなど暖かい春の光景が見られました。
 子供達は水位の下がった野川を堰き止め、かいぼりをして鯉、鮒、はや、うなぎ、鯰、もくぞう蟹などバケツ二〜三杯も獲れたりしていましたが、田んぼの肥えた土を堰きに使うのでお百姓さんに叱られ逃げ回っていた光景も見られました。

〇夏の野川
 夏の野川は水田に引水するために川を堰き止めた天然プール。そこは子供達が嬉々として泳いでいました。貫井弁天の湧水を利用した貫井プールがありましたが湧水のため水が冷たく、利用料もかかるので子供達はほとんど川で泳いでいました。また、夜になると田んぼには蛍の群れが飛び交いそれは美しい幻想の夜が出現しました。

〇秋の野川
 秋の野川は静かな佇まいを見せていました。田んぼは実りの秋で黄金色に染まり、子供達は布の袋に竹筒をつけて蝗(いなご)取りに夢中でした。獲った蝗は2〜3日袋に入れておき糞を出させてから羽をもぎ取り佃煮にして美味しくいただいたいたものです。食料不足の時期は最良のカルシューム源で蝗の佃煮は珍重されました。
 周辺の雑木林では、しめじ、はつたけなど茸が沢山取れ茸狩りを楽しみ秋の味覚を満喫していました。

〇冬の野川
 冬の野川は寒くても氷結することもなく流れていました。その頃はグランドなど無く 子供達は稲を刈り取った跡の凍ったたんぼで草野球に興じていました。今では田んぼはすっかり姿を消し、住宅街と遊水池や公園に姿を変えて小金井新橋の付近にある「水田跡の碑」がかってここに田んぼが在ったことを物語っています。