幕府は、享保7年、(1722)7月、財政悪化に伴う年貢増収政策として全国に新田開発を奨励する高札を日本橋に建てた。 当時の江戸町奉行大岡越前守忠相は、「地方御用」を兼務し武蔵野新田開発を推進した。武蔵野新田開発は、享保7年〜16年 (1,722〜1,731)まで大岡配下の代官岩手籐左衛門と萩原乗秀が担当したが、年貢の徴収が厳しく新田離脱者が多く発生した。
享保17年〜元文3年(1,722〜1,738)は大岡の腹心で与力の上坂安左衛門政形が担当し、公金貸付制度を導入したり、 検地により農民耕地を確定し、生活の安定化を図ったが、凶作に見舞われて村は疲弊した。元文4年〜延享2年(1,739〜1,745)は 押立村(現在府中市)の名主だった川崎平右衛門定孝が新田開発世話役に登用され大岡忠相の配下に組み込まれた。川崎は、 北武蔵野の三角原(鶴ケ島市)と南武蔵野の関野新田(現在小金井市)の2ヶ所に陣屋(開発拠点)を設置して、凶作で離村した 村人の帰村に金3両の立帰金をを支給し、井戸掘や分水路普請費用の支給、養料金の支給などの諸施策を行い新田の復興を軌道に乗せた。 「新編武蔵野風土記稿」には、82ヶ村の新田開発が出来たと記されている。

証文の事
一去歳中武蔵野新田開発之儀、拙者共印形ヲ以御公儀様江絵図願書共ニ指上候得共、内証ハ 貴殿方共ニ拾壱人立会連衆相談之上ニて相極く申候紛レ無御座候、仍而此度武蔵野為御見分御代 官御与力衆五月十四日ニ当村江御出被遊、御新田願之者共了簡書相認差上候様ニ被為 仰付候、立合 相談之上拾壱人名印仕指上候、翌十八日より同廿八日迄御検地御定杭御打被遊候、此上者御窺相済 次第、其場所惣し而無高下拾弐割、其壱ツ分寺地宮地ニ割、其外ハ拾壱人ニ割合可申候、勿論御新田 開発之儀ハ連衆相談ヲ以諸事相究可申候、為後日、仍而如件
享保八年卯六月三日
籐 八印
源右衛門印
孫 市印
平左衛門印
喜右衛門印
市右衛門印
元右衛門印
長右衛門殿
弥五左衛門殿
源 八殿
六左衛門殿
右連衆証文円成院江納置者也
証文の事
昨年武蔵野新田開発につき、私たちは幕府役所に印形を据えた願書を絵図と一緒に提出したが、実際のところ、この事業についてはあなた達と一緒に十一人の立合いのもと、連衆が相談して決めていくことに相違はない。そこで今回武蔵野検地のため御代官様方が五月十四日にお越しになり、新田開発参加者の了簡書を提出するように命じられたので、十一人の立合いのもと、連衆が相談して十一人の名前と印形を据えて提出した。出典 NHK通信教育古文書講座