玉花勝覧





玉川上水の桜





玉川上水の桜

 江戸の水道である玉川上水は、承応2年(1,653)に羽村の堰から江戸の四谷大木戸まで開削され、寛文10年(1,670)、 3間幅に拡幅され両岸には、松、杉が植えられた。武蔵野新田の開発が一段落した元文2年(1,737年)頃、 幕府の命により、川崎平右衛門が松・杉を山桜に植え替えたものと伝えられている。
 植樹の範囲は、小金井橋を 中心とする五日市街道に沿った玉川上水の両岸6Kmである。
 初めは江戸から遠く、また、幼木のために、地元以外 にはあまり知られていなかったが、およそ半世紀後の寛政6年(1,794年)、古河古松軒が江戸の近郷を紹介した「四神地名録」に、はじめて小金井の桜を 載せた頃から、その存在が徐々に江戸の人々に知られるようになり、寛政9年(1,797年)に、大久保狭南が 「武埜八景」の一つに選んでいる。以後、江戸から多くの文人墨客が小金井を訪れ、観桜紀行を残している。ここでは、文化元年(1,806)に訪れた俳人露庵有佐の紀行文「玉花勝覧」の序文を紹介する。
 





玉花勝覧








解読筆写

 
玉花勝覧

玉花勝覧序
武蔵野多磨郡金橋のほとりなる桜ハ寛永の
昔植させたまひしとなむ。又元文の頃うえ添
ありけるとかや。今ハ前後のけちめなく。ともに
老木となりぬ。しかれとも花の色ますますこまやか
なり。いかなれハ斯る桜をしれる人稀なり
けむ。やうやうこのかた。ほのめかしき
こへ侍る。されは周魚下流をかたらひ。師翁を
すすめ三月十二日の暁にあかはねを出て。青山の
すみわたれるより、道すからの春色に眼を養ひ、
未の剋はかりに花のもとに至る。やかて金橋に
たたすめは、凡そニ里はかりかほと両岸さしはさみ、
花かげ流水に移らふけしき譬むか物なし、ち
かきは雪きの降つミ遠きハ白雲の棚曳かことし、
すえハ武相の山々聳へ、富士の根高く霞の
ひまに錦綉をなす。美景魂を奪ひ、かへるさ
をわするかつ見ぬ人の為とおもふ物から辺
なる農家に駆けより、あるひハ馬ひくおのこ又ハ
耕す翁に問て、道のほとあらましかいしるす事しかなり

文化元甲子年三月  露庵有佐





現代語訳

 
玉花勝覧序文

 武蔵野多摩郡の金橋(小金井橋)のほとりにある桜は、寛永の昔に植えられたものである。又、元文の頃増植されたそうであるが、 今は前に植えたものも後に植えられた木も見分けがつかなくなり皆老木となった。しかし、花の色はますますあざやかである。 どうしたことか、この桜知る人は稀であるようだ。
 ようやくこのところほかに人の噂で知られるようになった。そこで、 友人の周魚(俳号)と下流(俳号)を誘い、師翁を誘って、3月12日の暁に赤羽(現港区)を出発して、澄みわたった空に映える 緑の山をはじめ、道すがらの春の景色に眼を養ひながら、午後2時頃に桜の花の咲いている所に至った。やがて小金井橋に佇めば、 凡そ8キロくらい両岸をさしはさみ花の影が流水に映る様子がすばらしく譬えようもない。近くは雪の降ったようであり、遠くは 白雲が棚引いているようである。その先には武州の山々が聳え富士の峯が高く、たなびく霞の合間に美しい織り物を見るようである。すばらしい風景に魂を奪われ、帰る時間を忘れる。まだこの風景を見たことのない人のためを思い、農家に近寄り、馬を引く男(馬子)や畑を耕す老人に訊ねて、道程やこの辺のあらましをちょっと書き記すこと、そのとおりである。

文化元甲子年三月  露庵有佐